2021年09月24日
ウズベキスタン (ノート29)
2018.3.30~4.7 「青の絶景に魅せられる中央アジア・ ウズベキスタン」への旅、これで私のシルクロードはつながったことにしよう……そんな勝手な解釈で参加することにしたのだった。
シルクロードというと何か壮大なロマンが感じられる。テレビの番組で見たさまざまな景色、民族、宗教などの断片的な知識があるだけだが、20年前、西安の西の塔から見た真っ直ぐに延びる広い道を眺め、ここからシルクロードが始まるのかと思ったことが妙に心に残っていた。またその後の旅で、ナポリからバスでアッピア街道のサンセバスティアノ門を通ってローマに入ったとき、「ここがシルクロードの終点です」 とガイドさんの説明。その時の嬉しさも忘れられない。
それから特に意識することなく、興味のおもむくままにツアーに参加して旅を続けてきたのだが、気がついてみるとシルクロードを辿ってきた感じ、それなら…中央アジアのウズベキスタンでつながったことにしようと考え参加を決めたのだった。
タシケントからサマルカンドへ向かう高速鉄道の車内でチャイとパイのサービスがあった。サマルカンドは本当に美しい青の都だった。
ブハラ
ブハラからヒヴァへ砂漠を4時間半くらい走り、途中では青空トイレも体験した。
ヒヴァのホテルは城壁の中、気ままに歩いて楽しめた。
早朝、ヒヴァを発ち、バスで1時間のウルゲンチからタシケントへ1時間半の飛行。
タシケントでは、日本人が建てたというナボイ劇場を眺め、日本人墓を訪問して夜中に出国。
とても親しみ深い人々でした。でも、一つ残念なことは、途中では届かないこともあるとかで持ち歩き、最終日にガイドさんに託したハガキが結局届かなかったこと。
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12:55
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2021年09月18日
コーカサス三国 (ノート29)
コーカサス三国(アゼルバイジャン・ジョージア・アルメニア)は、2017.5.17~25の9日間の旅。 興味をもったのはジョージア、プーシキンの詩「ムツヘタ」の舞台ムツヘタ、またNHKの番組で見たカズベキ村、天空の教会サメバ教会、ワイン発祥の地というのにも惹かれ、また、コーカサスという地名に何となく憧れての出発でした。モスクワ経由でアゼルバイジャンのバクーへ。全く知識なく降り立ちてみるとその発展ぶりに驚かされた。石油が出るということはこういうことか! 散歩をしているとよく声をかけられ、日本人に対する親近感を強く感じさせてくれ嬉しかった。
それほどの面白さも印象に残る場面もなく、空路ジョージアのトビリシへ。
山の上のジュバリ聖堂に着いたときは激しい吹き降りだった。眼下2つのムクトヴァ川とアラグヴィ川の合流地点とムツヘタの街が見えた。皆が教会の見学中にと雨風の中でがむしゃらにシャッターを切る。
軍用道路はとても興味深かった。道路いっぱいの羊の群れに出会う。雪景色の十字架峠では十字架と古い要塞、墓地。この道路の終点はチェチェン。雄大なコーカサス山脈のドライブに感激しながらカズベキ村へ。
素朴な農家レストランで食事をしてからジープに分乗してはるか上のツミンダ・サメバ教会へ向かった、がこれがまた想像を絶する悪路、小雨の降る山道はひどくぬかるんでいて、車の中で飛び跳ねながら細い山道を上って行った。
ここからカズベキ山が見える筈だがあいにくの天気、、雲の中からちらっと山頂が見えたことで一応満足することにする。
教会前のなだらかな山の背には、車の跡がいる乱れて白く浮き出し、適当に車を止めている。中にひっくり返った車も見えた。
旅行中はいつも朝の散歩が楽しみだ。トビリシのホテルの裏は高い樹の茂る公園で、犬の散歩や親子のボール遊び、また世界のどこでも見かける健康志向の姿、そして語らう人々の姿はちょっとうらやましい光景だ。
いろいろな出会いが楽しい市内散策。
国立美術館で歌の「百万本のバラ」のモデル、ピロスメの絵を見る。素朴なあたたかい絵だった。
アルメニアの首都エレバンへ。
旅行中に聞いたアゼルバイジャンとアルメニアのナゴルイ・カラバフをめぐる反目が続いていた。そのため帰りのコースも変更された。最近、激しい戦いの末アザルバイジャンが占領したというニュースを見たが、旅行をしてきたおかげで世界のニュースが身近に感じられる。
アララト山は日本における富士山のようなもの、民族の魂のよりどころらしいが現在はトルコ領で,取り戻したいというのが悲願である。
ホロ・ビラッフ修道院から平原の中に国境が見えた。
一面赤いポピーの広がる赤い野原を見たかったが、季節が合わず残念。でもどんな花か分からないが白い丘も清楚な美しさだった。
お天気にはあまり恵まれなかったけれど、親近感を持って接してくれる人々との出会いは楽しかった。
それほどの面白さも印象に残る場面もなく、空路ジョージアのトビリシへ。
山の上のジュバリ聖堂に着いたときは激しい吹き降りだった。眼下2つのムクトヴァ川とアラグヴィ川の合流地点とムツヘタの街が見えた。皆が教会の見学中にと雨風の中でがむしゃらにシャッターを切る。
軍用道路はとても興味深かった。道路いっぱいの羊の群れに出会う。雪景色の十字架峠では十字架と古い要塞、墓地。この道路の終点はチェチェン。雄大なコーカサス山脈のドライブに感激しながらカズベキ村へ。
素朴な農家レストランで食事をしてからジープに分乗してはるか上のツミンダ・サメバ教会へ向かった、がこれがまた想像を絶する悪路、小雨の降る山道はひどくぬかるんでいて、車の中で飛び跳ねながら細い山道を上って行った。
ここからカズベキ山が見える筈だがあいにくの天気、、雲の中からちらっと山頂が見えたことで一応満足することにする。
教会前のなだらかな山の背には、車の跡がいる乱れて白く浮き出し、適当に車を止めている。中にひっくり返った車も見えた。
旅行中はいつも朝の散歩が楽しみだ。トビリシのホテルの裏は高い樹の茂る公園で、犬の散歩や親子のボール遊び、また世界のどこでも見かける健康志向の姿、そして語らう人々の姿はちょっとうらやましい光景だ。
いろいろな出会いが楽しい市内散策。
国立美術館で歌の「百万本のバラ」のモデル、ピロスメの絵を見る。素朴なあたたかい絵だった。
アルメニアの首都エレバンへ。
旅行中に聞いたアゼルバイジャンとアルメニアのナゴルイ・カラバフをめぐる反目が続いていた。そのため帰りのコースも変更された。最近、激しい戦いの末アザルバイジャンが占領したというニュースを見たが、旅行をしてきたおかげで世界のニュースが身近に感じられる。
アララト山は日本における富士山のようなもの、民族の魂のよりどころらしいが現在はトルコ領で,取り戻したいというのが悲願である。
ホロ・ビラッフ修道院から平原の中に国境が見えた。
一面赤いポピーの広がる赤い野原を見たかったが、季節が合わず残念。でもどんな花か分からないが白い丘も清楚な美しさだった。
お天気にはあまり恵まれなかったけれど、親近感を持って接してくれる人々との出会いは楽しかった。
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18:39
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2021年05月27日
バルカン半島周遊 (ノート28)
2015.7.5~7.16 バルカン半島 6カ国周遊12日間の旅は、第二次大戦後旧ユーゴスラビアではチトーのもとで多民族が安定した国でした。1980年チトーが死ぬと民族間の対立が表面化し内戦が起こり、新聞やテレビでたびたび見聞きしてきてきました。夫の「チトーは偉かっと」いう言葉をたびたび聞いていましたので何となく興味を持っていました。
コースは、コソボ→マケドニア→アルバニア→モンテネグロ→ボスニア・ヘルツェゴヴィナ→セルビアの順です。
始めこそ貧しさが目に付いたコソボの風景もすぐに慣れて、いつの間にかありのままの美しさを求めてカメラを向けていました。市役所の壁面には世界の国々の援助に対する感謝の言葉が一面に刻まれていて、私は ARIGATO GOZAIMASU JAPAN を見つけてほっとしたのでした。
国名が北マケドニアとなったマケドニア、首都スコピエにそびえるアレクサンドロス大王の高い像は歴史の誇り高さを感じさせます。また、スコピエはマザーテレサの出身地なのです。
オフリド湖と含めた教会群は、自然・文化の世界遺産。
オフリドからアルバニア、千の窓をもつ世界遺産の街ベラートへ。
ベラートからアルバニアの首都ティラナへ。 ティラナ市内観光後クルヤを経て、モンテネグロのポドゴリッツァへ。
ブドヴァの街のすぐ外の砂浜にはビーチパラソルが並んでいた。城壁に囲まれた世界遺産の街コトルの港には大型客船が入っていて、観光客で賑わっていた。催しがあるらしく切り紙のエンゼルの飾りつけを見られて嬉しかった。
16世紀にかけられた石の橋スタリ・モストが1993年紛争時に破壊され、2004年にユネスコの協力もと再建され民族融和の象徴となっている。モスタルのホテルの向かいにあったビルは破壊されたままの姿だった。
オーストリア皇太子夫妻が殺害されたサラエボ事件の現場となった橋。これにより第一次世界大戦が勃発したのです。橋のたもとに博物館がありました。
旅をするに当たって読んだ「ドリナの橋」。読み切れなかったけれど、凄惨なの歴史の場面を想像ながら眺めました。すぐ近くに作者の生家がありました。
最終国、セルビアに入る。
かつてサラエボとベオグラードを結んだシャルガンエイト鉄道。モクラゴラから展望台の往復乗車。
ベオグラードの市内観光
チトーのお墓は建物内にあり、まわりの庭も明るくて記念館のようだった。
帰国の日は台風接近で関空には30分遅れで到着、バスで帰る予定がだったがバスは停止になっていた。さて困った。取り敢えず岡山まで帰って泊まろうと岡山までJRで帰ってきたがホテルは全部満室。駅は12時にシャッターが閉まるので、新幹線できたのなら新幹線の待合室に行ったら?と教えてももらい、お願いして入れて頂きました。有難いことに毛布とパンとお茶を頂き一夜を過したのでした。
コースは、コソボ→マケドニア→アルバニア→モンテネグロ→ボスニア・ヘルツェゴヴィナ→セルビアの順です。
始めこそ貧しさが目に付いたコソボの風景もすぐに慣れて、いつの間にかありのままの美しさを求めてカメラを向けていました。市役所の壁面には世界の国々の援助に対する感謝の言葉が一面に刻まれていて、私は ARIGATO GOZAIMASU JAPAN を見つけてほっとしたのでした。
国名が北マケドニアとなったマケドニア、首都スコピエにそびえるアレクサンドロス大王の高い像は歴史の誇り高さを感じさせます。また、スコピエはマザーテレサの出身地なのです。
オフリド湖と含めた教会群は、自然・文化の世界遺産。
オフリドからアルバニア、千の窓をもつ世界遺産の街ベラートへ。
ベラートからアルバニアの首都ティラナへ。 ティラナ市内観光後クルヤを経て、モンテネグロのポドゴリッツァへ。
ブドヴァの街のすぐ外の砂浜にはビーチパラソルが並んでいた。城壁に囲まれた世界遺産の街コトルの港には大型客船が入っていて、観光客で賑わっていた。催しがあるらしく切り紙のエンゼルの飾りつけを見られて嬉しかった。
16世紀にかけられた石の橋スタリ・モストが1993年紛争時に破壊され、2004年にユネスコの協力もと再建され民族融和の象徴となっている。モスタルのホテルの向かいにあったビルは破壊されたままの姿だった。
オーストリア皇太子夫妻が殺害されたサラエボ事件の現場となった橋。これにより第一次世界大戦が勃発したのです。橋のたもとに博物館がありました。
旅をするに当たって読んだ「ドリナの橋」。読み切れなかったけれど、凄惨なの歴史の場面を想像ながら眺めました。すぐ近くに作者の生家がありました。
最終国、セルビアに入る。
かつてサラエボとベオグラードを結んだシャルガンエイト鉄道。モクラゴラから展望台の往復乗車。
ベオグラードの市内観光
チトーのお墓は建物内にあり、まわりの庭も明るくて記念館のようだった。
帰国の日は台風接近で関空には30分遅れで到着、バスで帰る予定がだったがバスは停止になっていた。さて困った。取り敢えず岡山まで帰って泊まろうと岡山までJRで帰ってきたがホテルは全部満室。駅は12時にシャッターが閉まるので、新幹線できたのなら新幹線の待合室に行ったら?と教えてももらい、お願いして入れて頂きました。有難いことに毛布とパンとお茶を頂き一夜を過したのでした。
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15:25
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2021年05月19日
モロッコ (ノート27)
2014年11月6日から18日、13日間のモロッコツアーに参加しました。
関空からドバイ経由→カサブランカ→ラバト→ティトアン→タンジール→シャウエン→ボルビリス・メクネスを経てフェズ→エルフード→メルズーカ→アイト・ベン・ハッドゥ→マラケシュ→エッサウィラ→アルジャジーラ→カサブランカ→帰国。安いツアーは中東経由、11時間と9時間50分のフライト、さすがにへとへとだった。
耳慣れない地名、廟やら塔やら混乱していて、写真の記憶しかないが、タンジールからスペインが見えたことを覚えています。
最も期待していたのはシャウエンだった。出発前にさんざんネットやパンフレットで見ていたが、期待通りの街でした。もっとゆっくり人々の暮らしを写したい、でもツアーののかなしさひとに遅れまいとシャッターを切りながら駆け足で巡りました。
ネットで見ていたとおりの、山羊が登らされたアルガンツリーでバスは止まった。そして見物料を徴収された。
アルガンオイルというのをはじめて知ったが、みんな競って買い求めていたので私もお土産に、と。
この旅行で一番印象に残ったはエッサウィラ、ホテルの目の前には海が広がり、砂浜では日の沈むまで、また早朝から若者たちがボールを蹴って遊んでいる。その姿を追って夢中でカメラを構えるのはなんという楽しさ!小さな街の迷路も面白かった。
関空からドバイ経由→カサブランカ→ラバト→ティトアン→タンジール→シャウエン→ボルビリス・メクネスを経てフェズ→エルフード→メルズーカ→アイト・ベン・ハッドゥ→マラケシュ→エッサウィラ→アルジャジーラ→カサブランカ→帰国。安いツアーは中東経由、11時間と9時間50分のフライト、さすがにへとへとだった。
耳慣れない地名、廟やら塔やら混乱していて、写真の記憶しかないが、タンジールからスペインが見えたことを覚えています。
最も期待していたのはシャウエンだった。出発前にさんざんネットやパンフレットで見ていたが、期待通りの街でした。もっとゆっくり人々の暮らしを写したい、でもツアーののかなしさひとに遅れまいとシャッターを切りながら駆け足で巡りました。
ネットで見ていたとおりの、山羊が登らされたアルガンツリーでバスは止まった。そして見物料を徴収された。
アルガンオイルというのをはじめて知ったが、みんな競って買い求めていたので私もお土産に、と。
この旅行で一番印象に残ったはエッサウィラ、ホテルの目の前には海が広がり、砂浜では日の沈むまで、また早朝から若者たちがボールを蹴って遊んでいる。その姿を追って夢中でカメラを構えるのはなんという楽しさ!小さな街の迷路も面白かった。
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12:10
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2020年09月21日
シルクロード12日間 (ノート25)
2013.10.9~10.20 12日間の中国シルクロードの旅で新彊ウイグル自治区へ旅は、西のカシュガルから東へ、敦煌までを飛行機、列車、バスでたどる変化のある面白い旅でした。聞きかじった遺跡の名前を辿りながら、もう頭の中ではどれがどれやら、広大な大地と途方もない歴史、雄大な自然に圧倒されながら体感することの面白さがわすれられません。いまもたくさんの名前が頭の中で渦巻いています。
カシュガル~カラクリ湖片道200㎞のドライブ。この道はパキスタンへと通じるカラコルムハイウエー、途中ゲートで公安官のチェックがあって緊張する。標高3600mのカラクリ湖、正面に見える筈の7546mの〝ムスターク・アタ″ の頂上は雲に覆われていました。途中にあったブロンクリ湖は青い水の向こうに白い山が広がり不思議な美しさでした。
カシュガルでたくさんのウイグルの人々と出会ったが、みんな生き生きとしている姿が印象に残っています。でも、その後のウイグル自治区はどんどん自由を奪われている。いま人々はどんな思いで暮らしているのだろう。ニュースを見るたび胸が痛みます。
カシュガルからクチャへ向かう列車に乗り込む直前に激しく嘔吐して苦しかった。その前の民家訪問で食べた揚げ物がよくなかったらしい。9時間の車中ずっと横になっていた。
ウルムチからトルファンへ。
トルファンから夜行寝台列車で柳園に早朝着き、バスで敦煌へ向かう。
莫高窟はテレビで見過ぎているので特別の感動はなく、確認したといった感じでした。
カシュガル~カラクリ湖片道200㎞のドライブ。この道はパキスタンへと通じるカラコルムハイウエー、途中ゲートで公安官のチェックがあって緊張する。標高3600mのカラクリ湖、正面に見える筈の7546mの〝ムスターク・アタ″ の頂上は雲に覆われていました。途中にあったブロンクリ湖は青い水の向こうに白い山が広がり不思議な美しさでした。
カシュガルでたくさんのウイグルの人々と出会ったが、みんな生き生きとしている姿が印象に残っています。でも、その後のウイグル自治区はどんどん自由を奪われている。いま人々はどんな思いで暮らしているのだろう。ニュースを見るたび胸が痛みます。
カシュガルからクチャへ向かう列車に乗り込む直前に激しく嘔吐して苦しかった。その前の民家訪問で食べた揚げ物がよくなかったらしい。9時間の車中ずっと横になっていた。
ウルムチからトルファンへ。
トルファンから夜行寝台列車で柳園に早朝着き、バスで敦煌へ向かう。
莫高窟はテレビで見過ぎているので特別の感動はなく、確認したといった感じでした。
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22:46
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2020年03月24日
シベリア鉄道一人旅 (ノート26)
2014年6月21~7月2日念願のシベリア鉄道の旅をしました。年齢的なリミットが近づいたこと、ロシア語についても少し理解が進んだこともあり、一人で自由な旅をと計画しました。送迎はつけましたが後は股関節の痛みと相談しながら気ままに歩く。成田で前泊、13:55発S7でウラジオストク着18:35、ホテルへ。ウハー(魚のスープ)を食べたかったのでガイドさんに教えてもらい、ホテルのそばのレストランに行ったがとても美味しかった。翌日チェックアウトしてウラジオストク駅まで歩く。坂を下ればすぐ駅だ。
ロシア号の車掌さんにチケットを渡しコンパートメントへ。オベリスクを見て戻ってくると車掌さんの横でガイドさんが、この後の行程のチケットを持って待っていた。ホテルから駅があまりに近いので勝手に乗り込んでしまっていたのだ。相変わらず慎重さに欠ける自分にあきれていまう。
列車で3泊し、25日朝6時、イルクーツクに着いてホテルへ送ってもらう。ロシア号は隔日運航なので、イルクーツクで2泊して次のロシア号に乗ることになる。私はバイカル湖を見たかったので、11時にホテルを出てバスターミナルを捜しながら街を散策、チケットを手に入れて、痛い足を引きずりながらホテルに帰ったのは17時、翌日は8時半にタクシーの予約もでき一安心。
ホテルの部屋からはアンガラ川が見え、向かいはにイルクーツク駅。画面の端から端までの長い貨物列車が走っていました。
穏やかに澄んだ湖を眺めながらバイカル博物館から湖畔へ下って行く。雑念を忘れただ風景に中に溶け込んでいました。
イルクーツクに戻って、明日の車内の食糧を仕入れようと市場へ、安かったのでサクランボを1キロ買い思う存分食べられたのが記憶の残っている。
後半の旅は日本のツアーの人たちと一緒になりがっかりしたけれど、ツアーの添乗員さんがとても磊落な方でいろいろとお相伴に与かり、それはそれで気楽に楽しんだ3晩でした。レストランにも誘って頂き行った。前半でもレストランの体験をしようと食事に行ったのだが客は私一人で、写真を撮ろうとするとダメだという。鶏のサラダ、サリャンカ、黒パン、グラスワインで1600p。つまり5600円。後半では、ビジネスランチとワインで4200円くらい。これではみんな食料持ち込みの筈だ。
モスクワ到着は朝6時。降りたところに迎えの人が居てすぐにホテルへ送ってくれた。チェックインも出来て、シャワーを浴びたあと熱いコーヒーとパンで朝食をとる。さて、どこへ行こうか?昔のようには歩けないので足に応じて気ままにいこうと11時過ぎに出かけ
た。
アルバート通りは今回、似顔絵描きやさんがとても多かった。
歩き疲れてセルフサービスのレストラン「ムウムウ」へ。ビール片手に、外のテーブルで食べる。何という解放感だろう!
7時半ごろへとへとでホテルに帰ってきた。明日は帰国だ。3時半にホテルへ迎えがくる。。
翌日チェックアウトし、荷物を預けて9時半にホテルを出発、地下鉄でトレチャコフスカ美術館へ。足が痛くてとても見学は出来そうにない。ショップで「見知らぬ人」の絵葉書とメモ帳を買っただけで、表のレストランで休むことができてほっとする。帰りは地下鉄で方向違いに乗ったり降りたり、人に尋ねてやっと目的の電車の乗れて無事に帰ってきたがかなりあせった。
空港内では、ツアーの人たちの姿が見えないので変だなと思って改めて案内板を見たらゲートが変更になっていた。登場開始20分前に気がつき少々慌てたが無事間に合ってやれやれ。
ロシア号の車掌さんにチケットを渡しコンパートメントへ。オベリスクを見て戻ってくると車掌さんの横でガイドさんが、この後の行程のチケットを持って待っていた。ホテルから駅があまりに近いので勝手に乗り込んでしまっていたのだ。相変わらず慎重さに欠ける自分にあきれていまう。
列車で3泊し、25日朝6時、イルクーツクに着いてホテルへ送ってもらう。ロシア号は隔日運航なので、イルクーツクで2泊して次のロシア号に乗ることになる。私はバイカル湖を見たかったので、11時にホテルを出てバスターミナルを捜しながら街を散策、チケットを手に入れて、痛い足を引きずりながらホテルに帰ったのは17時、翌日は8時半にタクシーの予約もでき一安心。
ホテルの部屋からはアンガラ川が見え、向かいはにイルクーツク駅。画面の端から端までの長い貨物列車が走っていました。
穏やかに澄んだ湖を眺めながらバイカル博物館から湖畔へ下って行く。雑念を忘れただ風景に中に溶け込んでいました。
イルクーツクに戻って、明日の車内の食糧を仕入れようと市場へ、安かったのでサクランボを1キロ買い思う存分食べられたのが記憶の残っている。
後半の旅は日本のツアーの人たちと一緒になりがっかりしたけれど、ツアーの添乗員さんがとても磊落な方でいろいろとお相伴に与かり、それはそれで気楽に楽しんだ3晩でした。レストランにも誘って頂き行った。前半でもレストランの体験をしようと食事に行ったのだが客は私一人で、写真を撮ろうとするとダメだという。鶏のサラダ、サリャンカ、黒パン、グラスワインで1600p。つまり5600円。後半では、ビジネスランチとワインで4200円くらい。これではみんな食料持ち込みの筈だ。
モスクワ到着は朝6時。降りたところに迎えの人が居てすぐにホテルへ送ってくれた。チェックインも出来て、シャワーを浴びたあと熱いコーヒーとパンで朝食をとる。さて、どこへ行こうか?昔のようには歩けないので足に応じて気ままにいこうと11時過ぎに出かけ
た。
アルバート通りは今回、似顔絵描きやさんがとても多かった。
歩き疲れてセルフサービスのレストラン「ムウムウ」へ。ビール片手に、外のテーブルで食べる。何という解放感だろう!
7時半ごろへとへとでホテルに帰ってきた。明日は帰国だ。3時半にホテルへ迎えがくる。。
翌日チェックアウトし、荷物を預けて9時半にホテルを出発、地下鉄でトレチャコフスカ美術館へ。足が痛くてとても見学は出来そうにない。ショップで「見知らぬ人」の絵葉書とメモ帳を買っただけで、表のレストランで休むことができてほっとする。帰りは地下鉄で方向違いに乗ったり降りたり、人に尋ねてやっと目的の電車の乗れて無事に帰ってきたがかなりあせった。
空港内では、ツアーの人たちの姿が見えないので変だなと思って改めて案内板を見たらゲートが変更になっていた。登場開始20分前に気がつき少々慌てたが無事間に合ってやれやれ。
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22:59
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2019年10月22日
フッティルーテン クルーズ (ノート24)
2013年10月21日から30日までのノルウェーの沿岸急行船フッティルーテンで5泊する10日間の旅は、オーロラへの期待もあったが、結果として見られなかった。フィンランドの北の端のサーリセルカ、深い雪の世界にはいつも憧れる。小さな町のマーケットで見かけた張り紙にびっくりした。ところが後にテレビでそこに住む女性を紹介する番組を見て納得。その店で働いているのでした。
バスで4時間半、ノルウェーのキルケネスの港へ。ここで沿岸急行船フッティルーテン「トロール号」に乗船、フィヨルドの8つ港に寄りながらベルゲンまで5泊6日の船の旅にの出発です。
夜、水着でサウナに入り急いでジャグジーに駆けこむ。入ったときは誰もいなくてゆったりと楽しむことができました。
トロンハイムでは2時間の観光です。朝焼けの空の美しさ、大きくてきれいな町、展望台では紅葉に彩られた町と海の風景に見とれる。
ベルゲン駅から列車でオスロへ、途中ボスで乗り換えフィンセ1222mでは雪が残っている。ノート7のフィヨルドの旅思い出がよみがえった。
そんなこんなで夢中になっていたら、列車内にメガネを忘れてきてしまったのです。
バスで4時間半、ノルウェーのキルケネスの港へ。ここで沿岸急行船フッティルーテン「トロール号」に乗船、フィヨルドの8つ港に寄りながらベルゲンまで5泊6日の船の旅にの出発です。
夜、水着でサウナに入り急いでジャグジーに駆けこむ。入ったときは誰もいなくてゆったりと楽しむことができました。
トロンハイムでは2時間の観光です。朝焼けの空の美しさ、大きくてきれいな町、展望台では紅葉に彩られた町と海の風景に見とれる。
ベルゲン駅から列車でオスロへ、途中ボスで乗り換えフィンセ1222mでは雪が残っている。ノート7のフィヨルドの旅思い出がよみがえった。
そんなこんなで夢中になっていたら、列車内にメガネを忘れてきてしまったのです。
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13:09
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2019年09月26日
ロシア キジ島 (ノート24)
2013年6月28日~7月6日 3回目のロシアの旅はペテルブルク、キジ島、モスクワを巡る9日間のツアーです。釘を使わずあの独特のネギ坊主の教会の興味を覚えていたのでした。ペテルブルクとモスクワは三回目。ペテルブルクから入国し、翌日は午前中にエカテリーナ宮殿、午後はペテルゴフのピョートル大帝夏の宮殿を見学。
翌日 私はどうしても行きたかったドストエフスキーのお墓と博物館になっている家に行く。夕食に間に合わすためにガイドを頼んだ。
ドストエフスキーの奥さんが書いた「回想のドストエフスキー」を思い出しながら、ひとりでゆっくり文学館を見学でき幸せな時間でした。
地下鉄を乗り継いでチフヴィン墓地へ。緑の木立がしずかな落ち着きを感じさせてくれました。思いを達することができ大いに満足したのでした。
カレリア地方のペトロザヴォーツクはキジ島への入口。白夜のオネガ湖畔を多くの人たちが散歩をしたり、釣りをしたり、泳いだりと白夜を楽しんでいました。遊園地も開いていたので観覧車に乗って解放感を味わいました。
ゆっくりキジ島の風景を楽しむことができました。
翌日 私はどうしても行きたかったドストエフスキーのお墓と博物館になっている家に行く。夕食に間に合わすためにガイドを頼んだ。
ドストエフスキーの奥さんが書いた「回想のドストエフスキー」を思い出しながら、ひとりでゆっくり文学館を見学でき幸せな時間でした。
地下鉄を乗り継いでチフヴィン墓地へ。緑の木立がしずかな落ち着きを感じさせてくれました。思いを達することができ大いに満足したのでした。
カレリア地方のペトロザヴォーツクはキジ島への入口。白夜のオネガ湖畔を多くの人たちが散歩をしたり、釣りをしたり、泳いだりと白夜を楽しんでいました。遊園地も開いていたので観覧車に乗って解放感を味わいました。
ゆっくりキジ島の風景を楽しむことができました。
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2019年05月08日
アイルランド 南北周遊 (ノート23)
2012.3.10~3.19 アイルランド 周遊10日間のツアーは、参加者8名の殆どが一人参加でした。 はじめての一人の参加で緊張気味だったが、ヒースロー空港 を経由して北アイルランドのベルファストに着くと、すっかり旅人の解放感につつまれていました。ホテルのテレビで東日本大震災 1周年のニュースがながれ黙祷する。アイルランドへの憧れは、シングの戯曲「海へ騎りゆく者たち」を菊池寛全集で読んで感動、改めて「アラン島」も合わせて本を買って音訳し、旅行前にジェイムズ・ジョイスの「ダブリナーズ」を読んだ。北アイルランド(イギリス)ではアイルランド紛争の跡を辿ったことが印象深かった。
EU内自由往来でアイルランドに入る。まず山のない平らなアラン島へ、人も少なくシングの世界を想像しながら巡った。
EU内自由往来でアイルランドに入る。まず山のない平らなアラン島へ、人も少なくシングの世界を想像しながら巡った。
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13:59
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2018年11月29日
インド (ノート23)
2012.1.14~25 インド12日間の旅。 参加者17名の適当な人数、エア・インディアでした。アジャンタ・エローラの石窟寺院、ベナレス・ガンジス川、タージマハル・デリーなどを列車、飛行機にも乗って大きな国を縦断する旅でした。ムンバイで入国。ムンバイでマラソン大会がありエレファンタ島へは行けなかった。アラビア海のビーチへ。
ムンバイからオーランガバードへ飛行機で。エローラとアジャンタの石窟寺院群を巡った。仏教・ヒンズー教・ジャイナ教の遺跡の連なりには圧倒された。中でもエローラ16窟の素晴らしさは想像を絶するもの、美しい姿がそのまま残り、崖の上からその全景が見られるというのも素晴らしかった。時間のない中急いで崖に上って眺めることができとても満足でした。
アジャンター遺跡は川に沿って掘られている仏教遺跡群。
ボパールからオルチャへ列車で4時間。オルチャに着いたら、皆が降りないうちに次々乗り込んできて降りられない。こちらも必死に出口へ向かった。するともう動き出したではないか。私はポールにつかまって進行方向に駆けて降りられたが、飛び降りて擦り剥いた人も。と、列車が止まった。ガイドさんが非常ベルを押したらしい。忘れられない思い出になっている。
タージマハルは完璧な美しさでした。インドの人々の人懐っこさに驚きました。大人も子供もとにかく写真に写るのが好き。
デリーで忘れられない光景として思い出すのは、信号前の混雑でバスはゆっくり走っていた時のことでした。通りで、一人が太鼓を叩きもう一人が宙返りをしていた男の子二人が、バスが動き出すと懸命に追いかけてきて、宙返りをする。丁度信号で止まるとバスに向かって必死に手を伸ばしている。幸い窓が開いたので妹と二人で動き出したバスからチップを投げた。生きることの意味を考えさせられたことでした。
ムンバイからオーランガバードへ飛行機で。エローラとアジャンタの石窟寺院群を巡った。仏教・ヒンズー教・ジャイナ教の遺跡の連なりには圧倒された。中でもエローラ16窟の素晴らしさは想像を絶するもの、美しい姿がそのまま残り、崖の上からその全景が見られるというのも素晴らしかった。時間のない中急いで崖に上って眺めることができとても満足でした。
アジャンター遺跡は川に沿って掘られている仏教遺跡群。
ボパールからオルチャへ列車で4時間。オルチャに着いたら、皆が降りないうちに次々乗り込んできて降りられない。こちらも必死に出口へ向かった。するともう動き出したではないか。私はポールにつかまって進行方向に駆けて降りられたが、飛び降りて擦り剥いた人も。と、列車が止まった。ガイドさんが非常ベルを押したらしい。忘れられない思い出になっている。
タージマハルは完璧な美しさでした。インドの人々の人懐っこさに驚きました。大人も子供もとにかく写真に写るのが好き。
デリーで忘れられない光景として思い出すのは、信号前の混雑でバスはゆっくり走っていた時のことでした。通りで、一人が太鼓を叩きもう一人が宙返りをしていた男の子二人が、バスが動き出すと懸命に追いかけてきて、宙返りをする。丁度信号で止まるとバスに向かって必死に手を伸ばしている。幸い窓が開いたので妹と二人で動き出したバスからチップを投げた。生きることの意味を考えさせられたことでした。
Posted by ヤーブラカ at
13:46
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